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リレー連載エッセイ「私とバッハ」Vol.1

バッハを好きになる瞬間とは — 田中泰(音楽ジャーナリスト)
詩人中原中也は、初めて会う人に必ず「バッハの『パッサカリア』を聴いたことがありますか」と尋ねたという。「聴いたことがない」と答える人がいると、彼は心底羨ましそうな顔をして「あんなに素晴らしいものに出会える喜びが残されているあなたが羨ましい」と語ったのだそうだ。この逸話の信憑性はともかく、バッハの音楽をまだ好きになっていない方に、「あんなに素晴らしいものを好きになる喜びが残されているあなたが羨ましい」と声を大にして言いたい気持ちは中也の想いと全く同じ。バッハの音楽には、趣味の域を超えて“人生の伴侶”とでも言うべき価値があるように思える。
そのバッハの音楽を好きになるのには正直かなりの時間が必要だった。まずは、あのバロック時代特有の装飾音に馴染めなかったのも理由の一つ。名盤の誉れ高いグレン・グールドの『ゴールドべルク変奏曲』を初めて聴いた折にも、なぜこれが名盤なのかさっぱりわからなかったことを思い出す。それを払拭してくれたのが、ルーマニア生まれの伝説的ピアニスト、ディヌ・リパッティ(1917-1950)の録音だ。重い病をおして死の2ヶ月前に行われた『ブザンソン音楽祭における最後のリサイタル』に収められたバッハの『パルティータ第1番』のなんと素敵だったことだろう。まさに天啓。以来、バッハの音楽は生活の一部となり、なくてはならない存在となっている。30歳そこそこの若さで逝ってしまった中原中也とリパッティ。彼らが命を削るようにして教えてくれたバッハの素晴らしさは、今も全く色褪せない。
●お薦めのバッハ作品:パルティータ第1番

田中 泰(音楽ジャーナリスト)
田中 泰(音楽ジャーナリスト)
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